キレイな家を目指したい

物臭だけどキレイな家に住み続ける方法を模索しています

「よかったこと」ってどこにあるんですか、店に売ってますか

 よかったこと、よかったこと、よかったこと……ええと、ええと。

 

 

 昨日、一日の終わりに「よかったこと」を探していたら過去の嫌な記憶が一気に噴出してとてもドス黒い気持ちになりましたとさ。昔からそうなんですど、ネガティブな気持ちに蓋をしようとすると逆に爆発して余計ひどいことになるんですよね。嫌だと感じることを否定してまで何がしたいんだろう。何が得られるんだろう。欺瞞で得られる幸福があるとするならどんなものだ。どうどうどう、落ち着け落ち着け。

 つまりアレだ、あまりに「よかったこと」が見当たらなくて捏造しようと気持ちをねじ曲げようとしたのだな?

「スーパーに買い物に行ったらキッズ達(それも上は小学校高学年と思しき)(父親はいたけどなんも言わん)が店内をギャアギャア走り回って鬼ごっこをしていたけど、ぶつかられたり転ばれたりしなくてヨカッタと思うことにした」

などといった強引な軌道修正を行おうとしたのだな? そりゃあダメだよ。自分に無い能力使おうとしたって無駄だよ無駄。だって全然よかったなんて思ってないでしょ。うるさかったんでしょ? いや子供の声は別に平気なんだよな。何故かそれは平気。じゃあ走り回っていたのが嫌だったのかい? まぁ多少は。ちょっとアレは度が過ぎていた。それに対して何も言わない親が腹立たしかった? うーん、どうかなぁ。基本的に「親の顔など見たくない(見たら見たで余計に不快になるわ)」だからなぁ。実際見えたけど「お父さんお子さんにそっくりですねぇ!」って無意味に詰め寄りたくなる感じだったわ。

 じゃあ何がそんなに嫌だったのか。多分「注意しなきゃ……でも注意したくないなぁ正直めんどくさい」という謎の義務感だろうな。過剰な正義感というわけじゃなくて、コンビニで働いていたころに染みついた謎の義務感。子供からお年寄り、果てはならず者まで様々な事象に対処してきた末に得られた、いや、得てしまった義務感。近所のゴミ拾いなんかはそれが顕著に出てしまっている例。傍から見たら善行なんだろうけど、本人は敵意剥き出しでゴミを拾っているだけという。基本的に、やりたくないんですよ。それがポジティブな人間との絶望的な違いなんだろうな。ゴミなんか拾いたくないのに「ほら、ゴミを拾ったらキレイになったでしょ? よかったでしょ?」と思えるかって話。素直に思えないから一生日陰者なんですよ。いや日陰者でもいいけど別に。

 だったらもうね、そんな謎の義務感なんて捨てちゃいなさいよ。本当に困っている人がいるのなら話は別だけど、そうでもないのに首を突っ込むのはお節介ってもんだよ。自分にとってはどうでもいいことに対してまでどうにかしようと思わなくていいんだから。ただ一言「うるせえなぁ」で終わらせていいんだよ。失礼、言葉が悪かったですね。「や……騒がしいですわね」で終わらせればいいのよ。今「やかましいですわね」とか書こうとしなかったか? まぁいいや。

 

 ……というわけで、今日の「よかったこと」は、

「よかったことなど何一つ見つからなかったけど気持ちの整理が少しできた」

ことです。よかったねー(棒読み)。