くまが旅立ちました。
もう少しで13歳だったのに、迎えることができませんでした。
ちょっと遡りすぎだけど元気だったころの1枚。可愛い。フードを食べなくなってから約2年。肝臓が悪くなって、ヘルニアも発覚して、緑内障で両目が見えなくなって、自力で歩けなくなって、立てなくなって、自力で用を足すこともできなくなって、腎臓も悪くなって……本当にボロボロだったけど、意識が朦朧とする直前まで私に甘えてゴロゴロ喉を鳴らしていて、どんな姿になろうと可愛かった。可愛くてしょうがなかった。なのに、最期は病院に預けていて傍にいることができなかった。私はそれを一生悔やむのだろうか。分からない。預けたのは当たり前だけど治療のためなのに、預ける時に「もしかしたらこれが最後なのかもしれない」と心のどこかで思ってしまった。だったら預けず家に連れて帰るべきだったのだろうか。だけど、それはそれで苦しい思いをさせてしまうのは明白で、こういうことに関しては正解が分からないものだなと思う。
ここまで書くのに4日掛かっている。言葉を捻り出そうとしてもなかなか出てこない。
強制給餌を初めてからずっと、いつかはこうなるということは覚悟していた。覚悟はしていても、悲しいものは悲しい。長い間覚悟してきたから余計に悲しいのかもしれない。人でも動物でも最期の別れは悲しいし、どんなに手を尽くしたとしても絶対に後悔してしまう。そういうものなんだ。そんな割り切ったような考えなど所詮「分かったふり」に過ぎないということがよく分かった。
毎日強制給餌を続け、毎日粉薬をカプセルに詰めては飲ませ、毎日点眼をし、毎日トイレや歩行の介助をし、毎日汚れた部分を水不要のシャンプーなどでそれなりにキレイにし、週2回(最後の方は3回)車で往復2時間掛けて病院に行く等々……そんな生活を2年続けている人がいたら私は素直にすごいなと思うし、大変そうだな、大丈夫かなと心配にもなる。上記の例はもちろん自分が行ってきたことだが、自分では全然すごいと思わないし大変だとも感じない。むしろ、それだけやっても無力感に襲われるだけだった。「やれることは何でもやる」と思ってきたのに、最後は「結局、やれることは何も無かった」と思った。
猫は可愛い。本当に可愛い。可愛いだけじゃないけど可愛い。猫と暮らすのは大変なことだってある。自分には猫を飼う資格なんて無いと自己嫌悪に襲われるようなことだってある。だけど、それでも、猫と暮らす日々はかけがえのないもので、どんな宝石よりも光り輝いていた。ありがとう、くま。さよなら、くま。