キレイな家を目指したい

物臭だけどキレイな家に住み続ける方法を模索しています

タマネギの皮をむきながら

 能無しゆえの多忙につき、脳内の独り言を垂れ流しておきます。

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 箱買いしたタマネギのカビを取るために皮をむきながら、「丁寧な暮らし」とは何ぞやと考えた。このタマネギの皮むきなんかは、いかにも丁寧な暮らしっぽいなと思う。これが購入したタマネギじゃなくて家庭菜園などで収穫したタマネギだったら、なお丁寧な暮らしっぽい。現実は畑仕事はしたくないし、庭にタマネギが生えているのを見て「……ああ、またタマネギ植えてるのか」と、ゲンナリするのだが。

 去年のタマネギは積極的に消費して、去年のうちに食べ切った。ジャガイモは、もう知らんと言いたい。勘弁してくれと言いたい。毎年植える数を減らしてもらっているのだが、むしろ植えないでほしいくらいだ。サツマイモはすぐに悪くなるので何本もゴメンナサイした。というか、ジャガイモもサツマイモも美味しくないのだ。年々、美味しくなくなっていく。初心者でも下手でもそれなりに収穫できてしまうのがジャガイモとサツマイモだと思っていたが、味の保証まではさすがに無理なようで、やはり故・夫祖母は畑に関しては腕が良かったのだなと、つくづく思う。元気な頃は朝から晩まで畑にいるような人だった。今、この家にそんな人間はいない。夫と夫母は畑に関する能が無い。私はやる気が微塵も無い。仕方ないじゃないか、人間それぞれだ。だから無理に畑を続けなくてもいいと思う。頼むから今年はジャガイモとサツマイモを植えるのをやめてくれ。どうしても植えたいと言うのなら、1週間で食べ切れる量にしてくれ。

 丁寧な暮らしというのは、手間だと思う。ただ何となく生活していくのではなく、暮らしというものを意識し、さらに一手間加えるのが、いわゆる「丁寧な暮らし」なのだろう。積極的に家事をこなし、その中に「生き甲斐」や「遣り甲斐」を見出し、最終的には精神的な豊かさを手に入れる。現代的な家より古民家、炊飯器より鍋、掃除機よりも箒、フライパンはテフロンより鉄、外食より自炊……丁寧な暮らしにはそんなイメージがあるが、やはりどれも「一手間掛かる」ものだ。しかし一手間掛けることにより達成感が増し、自己肯定感も得られる。すなわち、幸せだ。ハッピーだ。じゃあやるかと問われても、やらない。そんな心の余裕など無いから。猫の介護などに追われ、他の物事は合理化を図るか丸投げするのが現状なのだ。

 それなのにタマネギの皮をむいている。そのまま保存可能といえば可能なのに、わざわざむいている。何故かといえば、嫌だからだ。カビをそのままにしておくのが嫌だから。自分の原動力は「○○したい!」というものではなく、「○○するのは嫌だから……」という、どちらかといえば消極的・ネガティブなものだ。そもそも私は己の存在意義を家事に求めてはおらず、どちらかとい

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 あくまでも垂れ流しなので、途中で面倒臭くなったら突然終わるのです。中途半端な人間なので、思考も中途半端なのです。では。