キレイな家を目指したい

物臭だけどキレイな家に住み続ける方法を模索しています

「普通」という言葉の呪い

(ここしばらくバタバタしているので、しょうもない話が続くかと思います)

 

 この年(どの年だ)になると、久し振りに友人に合うと昔話が増える。なまじ小学校の頃からの付き合いなので、こちらがケロリと忘れている話まで出てきて「ぐわーやめろー」という事も多い。そして記憶に残っているエピソードとは大抵が印象強い出来事であるが故に記憶されているので、そのようなものを羅列していくと、自分が大層な変わり者であったような錯覚に陥る……錯覚……あれ?

 大体、人は大人になるとどこかのタイミングで「自分は特別でも何でもなく、ごくごく平凡な人間だ」と悟る事が多いのだろう。物語の主人公などではなく、単なる村人A。当然、私だってそうだ。若い頃は「普通が一番だ」と普通の暮らしに憧れていたが、それは裏返せば「自分は普通じゃない」という思い込みによるものだった。ネガティブながらも普通じゃないと思っていた。30も過ぎれば徐々にそういった気持ちも薄れていき、己をそれなりに客観的に見る事が出来るようになった、と思っている。自分が普通じゃないかもしれないと思っていた事なんて社会全体から見れば別にそう変わった事でもなく、割と普通だ。そう、自分は平凡だ。取るに足らないが特別に劣っているわけでもない、毒にも薬にもならない平凡な人間なんだ。という考えで決着した。

 ところが友人の証言をまとめると、どうにも普通じゃない。友人の夫や子供にまで大受けされる始末だ。いやまぁ喜んでもらえるなら幸いだが、思い返せば親にも「この子は変わり者で」と言われ、夫にも散々「変だ」と言われ続けている。やはり普通じゃないのだろうか。

 と、ここまで考えてきて気付いてしまった。別に私は若い頃だって「私ったら変わり者」とは一切思っていなかった。「普通」というものに憧れていた、というのは自分の家庭環境に関しての事であって、決して己の性格や趣味嗜好についてではなかったはずだ。つまり、自分の性格などに関しては全く客観的に捉えられていなかったという事になる。そもそも性格なんてどう比較すればいいのか分からないのだから、普通が何なのかなんて分からないものじゃないか。

 だから今頃になって友人の昔話に「あはは、そうだったねー懐かしいねー」じゃなくて、「ぐわーやめろー」と思ってしまうのだ。穴掘って埋まりたい。親や友人や夫の話は正しくて、自分だけが自分を見ていなかったのだろう。それを最近になって自覚する事が出来たのだ。「私って○○なんですよね」と言う人って、大抵はそれに憧れを持っているだけの自称止まりだというのを忘れていた。つまりそれだ、そういう事だ。考えに考えて、最終的には「趣味嗜好は変わり者だが、社会的には凡人」という考えに行き着いた。社会的に毒にも薬にもならないなら、まぁ別にいいじゃないか。